多分、30年ぐらい前のことだったと思う。
帰りが同じ方向なので、都心から吉祥寺の杉山邸へタクシーで向かっている時、「三井ホームが、新百合ヶ丘に私の事務所を用意してくれましてね・・・」 と、先生は嬉しそうに話された。
先生は資料の蒐集魔。
何を書くにも、きちんとした資料やメモをもとに書かれている。
私のように「〇年前のことだったと思う」などとは絶対に書かれない。「何年何月のことだった」と書かれている。
それだけに、資料置き場が研究室や自宅だけではとても足りない。
いつも、「資料の置き場がなくてね」 と困っておられたから、「良かったですね」 と、思わず大きな声を出した記憶がある。
その新百合ヶ丘の建物が解体されることになり、当時の実質トップであった岡田副社長の招きで新宿の三井ビルに事務所を移転された。
「最初に井戸を掘った人の恩は忘れてはならない」 と言う中国の格言に倣った美談。
その杉山先生が、5年前に膵臓ガンで永眠された。
三井ホームのトップは、三井不動産出身者が数人も順次交替しており、かつての経緯や先生の資料が持つ歴史的価値が分かる者が不在となり、三井ビルから事務所を引き上げざるを得なくなった。
困ったのが邦子夫人。
自宅だけではなく、三井ビルの外にも先生が借りていた小さな事務所があり、そこもここも資料の山。自宅へ引き取れば、それこそ食事をするところも寝るところもない。
第一、床が抜けてしまう。
その時、杉山夫人に救いの手をさしのべたのが一条工務店。
同社は今から32年前の1978年に、浜松で産声を上げた地場ビルダー。
当時から東海地震のことが叫ばれていた。
静岡で、木軸で住宅業をやって行くには、ツーバィフォーに匹敵する耐震性の高い構造体を用意しなければならない。しかし、どこをどのようにすればよいかという具体的なデティールになると判らないことばかり。科学的に立証することが出来なかった。
創業5年目の一条工務店は、断られてダメ元と木質構造の最高の権威者であった東大の杉山研究室へ教え乞うために押しかけた。
明治大学で22年間教鞭を執られていた杉山先生は、1973年から東大農学部へ移られた。
余談になるが、私は杉山先生に一度だけご馳走になったことがある。
吉祥寺・伊勢丹の近くの小料理へ案内され、「今日は私のおごりです」と言われた。
「何があったのですか」と聞いたら
「実は6月から東大へ移ることになったのです・・・」
それまでの4年間、頻繁にお会いさせていただいていた中で、初めて接することが出来た恥じらいを含んだ子どものような笑顔だった。
一条にとって幸甚だったことは、先生は静岡市生まれだったこと。中学まで地元の学校に通い、後に一高から東大建築学科へ進んでいる。
また、ツーバィフォー工法のオープン化に際して、地場の元気の良いビルダー達と何回となく議論を交わし、一緒にゴルフをした経験も先生は持っていた。ツーバィフォーや大貫工法を含めた木軸の建築現場に明るく、識見も、交友範囲も、懐も深かった。
決して大手メーカー偏重ではなく、むしろ大手企業の中にたむろしている無責任で定見のない経営者や技術者の言動には、強い嫌悪感を持っておられた。
戦後、木造建築を罵倒する建築学会の大合唱。
そして多くの研究者が木質構造から離反してゆく中で、独り孤塁を守った杉山先生の反骨精神と信念は、通り一遍のものではなかった。
したがって、当時杉山先生のもとに参集した人々は、利害関係で結ばれるということではなく、木質構造を本気で育ててゆこうというポリシーを共有する仲間であり、師弟だった。
言うならば「木質構造改革の思想集団」。
そうした下地の中での地元ビルダー・一条工務店からの相談。
杉山先生には同志として大歓迎することはあっても、断る理由は1つもなかった。
翌年には一条工務店からの派遣研究員を受け入れ、1986年には2階建て木軸工法の実物大試験を、そして1988年には木軸の3階建て実物大実験を、浜松の本社敷地内で、杉山研究室の指導のもとに行っている。
木軸で、実物大実験を行ったメーカーは何社あるだろうか・・・。
こうした杉山先生直々の手ほどきを受けて自信をつけた一条は、地場ビルダーからの脱皮を図り、1986年から広島、仙台、千葉などに展示場を出展し、全国展開を始めている。
そして翌1987年には、早くも受注1000棟の大台突破をなし遂げている。
同社は、やみくもに突っ走ってきたのではない。
きちんとした指導と薫陶を受け、科学的な裏付けをもとに階段をかけ上ってきた。
技術開発の重要性を、会社全体が体質的に理解している。
決して営業先行型でもなければ、広報先導型でもない。
その礎を築いてくれた杉山先生への感謝の気持ちには、特別のものがある。
2000年に東大農正門脇に、集成材による大断面木造による素晴らしい弥生講堂「一条ホール」を完成させて寄贈したのも、その現れの1つ。
http://www.ffpri.affrc.go.jp/labs/etj/hayashi/yayoi/yayoi.html
そして、免震住宅の開発からi-cubeの開発へと、そのバックボーンは引き継がれている。
以前から、三井ビルにあった資料を引き取り、一条工務店の浜松本社内に「杉山英男文庫」を開設したという話は聞いていた。
それらの資料を再整理して、昨年夏に「杉山英男記念館」としてリニューアル・オープンをしたという話を聞いた。
そこで、岡田徳太郎氏をお誘いし、さる22日に訪問してきた。
一緒に訪ねて、先生に最も喜んでいただける1人だと前々から考えていたから・・・。
本社の2階の階段脇に、記念館があった。
中に入ると、自宅の書斎にあった本棚をはじめ、机にイス、それにお嬢さんが弾いていたピアノまでが置かれており、当時の杉山邸を彷彿とさせてくれる。
そして書斎の反対側には数々の表彰状やトロフィーなどが飾ってある。
国内だけでなく、海外からの表彰も多い。
この書斎と表彰状の奥に、厖大な書庫が並んでいた。
正直なところ、如何に杉山先生が資料蒐集魔だといっても、蔵書を中心にせいぜい1万点ぐらいだろうと考えていた。
確かに、学生時代に読んだと思われる古い文芸書などもある。
そして、建築や木材に関する蔵書は、予想通り多い。
その中に、進呈した覚えのない古い私の著書も数点発見出来た。今さらながら、先生の貪欲さに頭が下がる思いがした。
残念ながら書籍コーナーだけを撮った写真がない。余分な人物が写っているこれしかないので我慢していただきたい。右から一条の岡常務、杉山研で博士号をとった平野次長、岡田徳太郎氏と私。
こうした蔵書以上に大きなスペースを占めていたのが論文集や各種の研究発表集。
そのほか、各委員会や学会の議事録などの記録。
それが、二重に配置された書籍棚に収納されているので、圧倒されてしまった。
それだけではない。
日記やメモ。あるいは写真集やネガ。
ともかく50uの記念館の中は書類だらけ。
その数は2万点以上と推定される。
というのは、まだ完全に仕分け作業が終わっておらず、確定出来ないからと言う。
つい最近、安藤直人研の学生さんが1950年当時の、住宅金融公庫の標準仕様書作成に関する資料を探したが、公庫にも国立図書館にも見当たらなかった。
そこで、この杉山記念館を調べたら、ものの2時間で見つかったという。
この杉山記念館は、まさしく日本の木質構造の歴史そのものであり、貴重な資料の宝庫。杉山先生の個人的な財産ではなく、国家的な財産。
研究者でない私だが、もし許されるなら一週間通い詰めて、片っ端から拾い読みをしたいと感じたほどの内容。
研究者や学生だけでなく、木造住宅に関係している人々は、中部地域を訪れるチャンスがあったら、是非一度訪問されることをお奨めしたい。
見学料は無料で、開館時間は10:00〜17:00(年末年始を除く)
事前予約制で、問い合わせ先は (0120)543511。場所は浜松市倉松町4040 一条工務店内。
同記念館の案内書はハガキ大45ページの小冊子。なかなかよくまとまっている。
なお、杉山英男先生の業績を知りたい方は、下記の2冊がお奨め。
杉山英男著「地震と木造住宅」(丸善刊 3000円+税)
「杉山英男の語り伝え」(杉山英男先生追悼記念出版実行委員会刊、東大・農学生命科学研究科、木質材料学研究室内 03-5841-5253。 E-mail: jte@a.fp.a.u-tokyo.ac.jp)